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マタニティ・小児担当歯科医師の紹介
吉道澄恵 自己紹介 永井美也子 自己紹介
吉道澄恵 自己紹介
吉道澄恵 自己紹介
吉道澄恵 自己紹介
初めまして。キラキラアドバイザーの歯科医師、吉道澄恵(ヨシミチ スミエ)です。
私は現在2歳9か月と、10か月の2人の女の子がおり、
まさに“キラキラ育成”真っ最中です!
2人生まれてみて初めて分かる喜びや楽しさ、悩みや苦労がたくさんある中、
子育てに奮闘している毎日です。

一人一人性格が違うから、誰1人として同じ育児はしていないのではないかと、
育児の奥深さを感じています。
「情報があふれすぎて、
どうしたらいいか分からなくなることが多い。」
とも感じています。

母乳育児にしても、離乳食の進め方にしても、
幼児教育にしても、子供と共に日々成長している毎日です。

その中で唯一、惑わされないものがありました。
それが「子どものためのむし歯予防」です。
私は歯科医師ですから、当然かもしれません。
しかし、「他のお母さん達は、子どものむし歯予防に関して、たくさんの不安やストレスを
感じているのではないだろうか?」と感じました。

幸い、私は子どものむし歯予防に関してだけは不安やストレスを感じることなく
実践出来ています。
そうすると、子育てがとっても楽になり、余裕も出てきます。
「むし歯予防」と書くと、少し子育てと離れたイメージがあるかもしれませんが、
歯育て」というぐらい実はとても密接な関係があるのです。
では、なぜ「マタニティ」の時期からなのか?

それは、「歯育て」するにあたり、マタニティの
時期から出来ることがたくさんあるからです。
あなたが妊娠した瞬間からあなたは「母親」となり、
おなかの中で子育ては始まっています。
それとともに歯育ても始まっているのです。

このサイトでは、
マタニティの時期から出来ることや、知っておいたらいいこと
なぜ私が「ラクに、楽しく歯育て」が出来ているのか
をお伝えします。そして、あなたとこれから生まれてくるお子様がキラキラ輝けるよう、
お手伝いできたら幸せです。

私に出来るのだからあなたにもできます。一緒に「キラキラ育成」しましょうね☆
私の生い立ち
1976年4月12日、3480g、長女として生まれました。
この頃の私のことを母に聞くと、赤ちゃんの時から(今もです・・・)食欲旺盛、
よく寝る子で夜泣きもなく、病気もせず、育てやすい子だったそうです。
食欲旺盛だったことは、まるまると太った私の幼少の頃の写真を見ると、
よく分かります。
(その後、5歳の時に盲腸になったのをきっかけにやせたそうです。)
幼少の頃
1歳半の時、弟が生まれました。
小さかった私は、母親を弟にとられた思いが強かったのか、
よく弟を押しのけては「だっこー!」
せがみ、母親を困らせていたようです。
いわゆる、赤ちゃん返りがとても強く現れていたのでしょう。

この頃の私の父は心臓外科医でした。まだ新米だった父は仕事が忙しく、
当直や手術などでほとんど家にいない状態でした。
年子の私と弟をかかえ、母は本当に大変だったと思います。
幸い、この頃は母方の祖父母と同じマンションに住んでいたため、
母は毎日のように祖父母の家に私達2人を連れて行っていたそうです。
祖母が「あなたが『だっこー!』って言った時は、
おばあちゃんが抱っこしてあげたのよ。
あなたはすぐ抱っこしてもらいたがって。よく肥えてたから
手が腱鞘炎になってね。
お風呂もよくいれてあげたよ。」という話を うれしそうに
してくれるのを見て、愛情をたくさん受けて育ったことを
とてもうれしく思うとともに、感謝の気持ち
いっぱいになりました。
さて、愛情をたくさん受けて育った私は、「長女」という使命
たくさん受けることとなりました。
親を初めとして、周りの人達から「お姉ちゃんなんだから。」という言葉を
たくさん受けました。

さらに、5歳の時に妹が生まれ、「お姉ちゃん」という使命を小さいながらも
さらに「持たなきゃ。」という気持ちになっていました。
好奇心旺盛だったことも手伝って、妹のミルクを飲ませるお手伝いや、
料理やお皿洗いや洗濯をたたむお手伝いなど、何でもしようとする子だったそうです。
小学生の頃
小学2年生の時。この頃、母はパッチワークを習っていました。
好奇心旺盛な私は「私も作る!」と、一人前にきれいな模様の鍋つかみの作り方
教えてもらい、担任の先生の誕生日にプレゼントしました。

また、この頃持っていた「リカちゃん人形」にセーターを作ってあげたくて、
編み物を教えてもらいました。 この時教えてもらった編み方は1通りでしたが、
その後家に帰ってから自己流で編み物を発展させ、
小学3年生で初めて自分でセーターを編みました。
すべて自己流ですが、今では私の趣味となっています。

他に具体的にどんな子だったかと言うと、「明朗」「快活」「活発」
「勝気」「お世話やき」「好奇心旺盛」「正義感」「責任感」「真面目」・・・

今考えると、「お姉ちゃんなんだから」という言葉がかなり影響していたのだろうなぁと
思いました。
近所には、弟や妹の友達が多かったため、自分の
友達と遊ぶよりは、弟と弟の友達を引きつれて
裏山の探検
に行ったり、川を下ったり、 妹の友達と
おままごとしたり、
何かと自分ではお世話をしている
気になって遊ぶことが多い日々でした。

小学4年生から中学受験のために塾に行くことになりました。私の場合、親から言われるがままに、そしてそれに何の疑いもなく「私は中学受験をするんだなぁ。」という
ぐらいの気持ちで行っていました。
「この中学に受かるぞ!」という自覚はありませんでした。
塾は楽しかったですが、自覚がないままに勉強するので、
小学6年生になると勉強に対してストレスを感じるようにもなりました。
それでも成績は何とか合格できるだろうと言われるぐらいでしたが、結果は不合格。
今思えば、「合格したい」という目標もなく勉強していたため、
ここぞというふんばりがなかったのだろうなぁと感じました。
中学生の頃
中学受験の勉強をしていたせいか、
中学に入ってからの勉強は あまり苦に思いませんでした。
普段の授業で十分理解出来、家で勉強しなくてもテストはいい点がとれる状態でした。

私の得意科目は数学でした。
そのことで中学時代に覚えていることは、クラスメイトが数学の授業が終わった後に
分からない所があった場合、 先生に聞きに行くのではなく、私に聞きに来ることでした。
私としては授業中に理解したことを、
どういう風に理解したかを伝えただけだったのですが、
皆が「先生より分かりやすい!」と言ってくれました。

その時、人に教えるということが、何より自分の理解を深めることになることを感じました。
人から聞かれて教えた所がテストに出たり、 人から聞かれてどのように伝えようかと
考えることにより自分も理解出来たり、その場が一番勉強になりました。
今考えると、このように自分でかみ砕いて理解出来たことを、
一から人に伝えることが得意であり、好きなんだなぁと思いました。
また、人に与えることにより、自分に返ってくるということをここで経験できたことは、
とても貴重な体験だったと思います。

部活はE.S.S部に入りました。
この年は、何と私の学年だけ約20人という大人数が入部し、大所帯の部になりました。
主な活動は文化祭の時に英語のミュージカルをするのですが、
どのミュージカルをするか決めるために
英語のミュージカルを何本も見る日
が続きました 。
そのおかげで、ミュージカルのよさを知ることができ、大好きになりました。

中学時代は、毎年クラスの委員長や副委員長に推薦され、
中学3年生では生徒会の役員にも任命されました。
「何で私が?」という気持ちもありましたが、「お世話やき」、「責任感」、「真面目」
性格が手伝って、特にいやな気持ちはせず、むしろはりきっていたように思います。

勉強に関しても、運動に関しても、部活に関しても、友達に関しても、
いやなことや苦手意識を持つこともなかったおかげで、
自分自身、わけへだてなくいろんな人と話をしたり接したりすることができ、
そのおかげでいろいろな友達と楽しく過ごすことができました。

変な感じだよね。」と、昔を懐かしみます。
中学時代は私にとって何の努力もしなくてもうまくいっていた日々でした
(これが後々痛い目を見ることになるのですが・・・)。
高校受験にも、第一志望に何の問題もなく合格しました。
高校生の頃
さて、特に努力もせずに高校は県立では県下一と言われている所に入ることができました。
どんな高校生活が待っているだろうと、期待に胸膨らませていました。
この時の私は、高校も中学の延長のような意識だったと思います。

部活は「バレーボール部」に入ることにしました。
これは、一緒に通学する友達が「部活は運動部に入って青春しなきゃ。」
言ったことがきっかけです。
そして体験入部に行ったとき、先輩達がとてもやさしく、アットホームな感じで、
「これが運動部というものなのかな。」と、一気に魅了され、入ることを決めました。

ところが、今まで運動は体育の授業しか知らない世界に生きていたために、
高校からいきなり運動部はとてもきついものでした。
しかも、私の学年だけで約20人も入部したため(中学のE.S.Sの時と同じ・・・)、
何人かにしぼるために初期の頃、
基礎のトレーニングを厳しく行ったということが後で分かりました。

しかし、練習の厳しさ以上に先輩がやさしかったのと、
厳しいことを厳しいと思わない(よく言えば前向きな!?)性格が手伝って、
私はバレーボール部を続けることができました。

その後、高校時代の私は「謙虚」「ひかえめ」「内気」な性格へと変わり、
知らず知らずにできるだけ目立たないようにしている自分がいました。

そんな高校時代では、部活を通して 「やり続けることの大切さ」、「集中力」
「粘り強さ」、「謙虚さ」、「チームワーク」
を学びました。

最初約20人入ったバレーボールに最後まで残ったのは17人。
私も試合に出してもらったことはあったものの、レギュラーにはなれませんでした。
もともと自分がレギュラーになろうというよりは、「レギュラーの子を応援したい。」
という気持ちの方が強かったのです。

チームというのは、そういうイレギュラーの人達のサポートも重要だということを
顧問の先生やレギュラーの人から言ってもらえることにより、
自分の思っていることは役に立っていると実感することができました。
この時、人をサポートするという気持ちがより一層強く生まれたと思います。

また、高校3年生では生まれて初めて自分から「目標」を持つことのできた年でもありました。
私がなぜ歯医者になったのか
私は、幼稚園の時から「大きくなったら歯医者さんになる。」と言っていたそうです。
そんな小さな時から目標を持つなんて、すごい!

というわけではないのです。
もともと心臓外科医だった父の方針が、
「子どもは女の子であろうと男の子であろうと医者か歯医者に。」ということだったのです。

小学校低学年の文集に、「将来大きくなったら何になるか」を書き込むスペースがありました。
他の友達が「お花やさん」とか、「パンやさん」とか、「スチュワーデス」、「およめさん」と書いている中、私は「はいしゃさん」と書いていました。
また、母方の祖父も伯父も歯科医院を開業しており、歯医者は身近な存在でした。
さらに伯父の歯医者の2階が祖父母の家だったため、お正月に親戚みんなで集まった時は、
いとこ同士で診療室でかくれんぼをしたり、探検をしたりして遊んだものです。

しかし、全く順調に歯医者になったというわけではありません。
高校3年生の時、ふと「何で私は歯医者にならなければならないんだろう。」
考えるようになりました。
このとき初めて自分の進路に関して親のひいたレールの上を走っている自分に気付き、
それに対して疑問を感じるようになりました。

「やっぱり私は歯医者になりたいんだ。」

きっかけは母の「大きくなったら歯医者さんになって、お母さんの歯を治してね。」
という言葉でしたが、いつの間にか母だけでなく、
他にも歯で困っている人の役に立てる歯医者になりたいと思っていたのでした。

その後、第一希望の岡山大学を見に行き、「ここに来たい!」という気持ちを強くもちました。
生まれて初めて自分の意志で目標を持つことが出来たのでした。
それが、高校3年生の夏前。ちょうどバレーボール部を引退した時でした。

それからの追い込みにより、無事、岡山大学歯学部に合格したのでした。
中学受験の時とは違い、勉強がストレスに感じることはなく、むしろ楽しいと感じることもありました。
自分の意志を持つことの大切さを実感しました。
大学生の頃

期待に胸をふくらませた入学式。行ってみてびっくりしました。

女の人の方が多い!歯医者というと、男の人のイメージだったので、まずそれにびっくりしました。
これは、他の女の子もそう思ったそうです。
60人中女子35人、男子25人。ちょうど私の学年から女の人の方が多くなりました。
そのせい(?)か、女の子同士でわいわい集まることが多く、
とても楽しい大学生活を送ることができました。

部活はバレーボール部がよかったのですが、なぜか歯学部にはありませんでした。
そこで、「夏は、みんなで軽井沢に行こう〜!!」という象深い勧誘をしたテニス部
入部することにしました。

さて、「夏は軽井沢」というフレーズは、間違いではなく、
毎年軽井沢に行くことができました。
実は、歯学部のテニス部は、毎年夏に軽井沢で
全国大会
があるのです。
その様子は、軽井沢の「優雅な」イメージとは
かけはなれていました。
砂まみれ、汗まみれ、暑い中試合は過酷なものでした。
応援も声がかれるぐらいみんなでエールを送り続けました。
部のためにレギュラーの先輩達が戦う姿はとても
かっこよく、感動的
でした。

ここでの私も、自分がレギュラーになるというよりは、レギュラーの人達をサポートしたいという
気持ちが強かったです。試合に向けての練習が始まると、私達1年生はボール拾いばかりで、
ほとんど打たせてもらうことはありませんでした。
しかし、私の学年が幹部になった時に、私は同級生から、レギュラーを目指すことの大切さ
教わりました。というのも、すべての人にレギュラーになれるチャンスが与えられるシステムを作ったからです。
レギュラーを目指すことにより、サポートしていただけの時より充実感も楽しさも増えました。
気持ちの持ち方一つで努力の仕方も変わり、向上したことが部全体のレベルをあげ、
それによりついてくるものは大きいことを実感させてもらいました。

それからは、人が努力していることをただサポートするだけでなく、
自分が努力することにより得られたものを人に提供し、
サポートするという考えに少しずつ変わっていきました。

また、大学の部活は、たくさんの人との出会い、つながりが出来ました。
今の職場の「ヨリタ歯科クリニック」の寄田先生、永井先生、吹田先生と、
元勤務されていた吉田先生との出会いも、このテニス部でした。

さて、大学の授業はというと、私の学年から、補綴科(かぶせものの作り方を教えてくれる科)の
授業で本格的に「予防」というものが教えられることになりました。

「これからの歯科医師は、できるだけ歯を削らない、神経を取らないように
していかなければならない。」そして、そのことにより歯が残り、
歯が残ることがどれほど素晴らしいかということも授業で学びました。

卒業後の進路を考えるにあたり、大学に残るか、開業医に行くかで迷いました。
本当は開業医に行きたいのだけれど、だいたいの開業医は
「いかにきれいに治すか」ということが主になっていたので、
「歯が残るように予防を取り入れた開業医があったら、絶対そこにいくのだけれど・・・」

そんな時、大学の予防歯科関係の先生から、「そんな開業医があるよ。」と教えていただき、
すぐに見学に行きました。
「私がやりたいことはこれだ!」
迷いなく、そこに勤めさせてもらうことを決めました。

pmj歯科に勤めて
その歯科医院はpmj歯科という、岡山の開業医でした。
pmjの意味は、「Preventive medicine in Japan」「予防医学を日本で広げよう」という意味です。

そこに2年弱勤めましたが、そこで学んだことは・・・
むし歯も、歯槽膿漏も、予防の方法が確立しており、確実に予防できるもの。だけど、
それを知らない人がたくさんいるために、苦労している人がたくさんいらっしゃる。
」ということです。
乳歯にむし歯がたくさん出来たお子さんも、どのようにすればむし歯にならないかという情報を
聞いてから、それを実践する事により、永久歯はむし歯ゼロにすることができたという方を
たくさん見る事ができました。

歯槽膿漏に関しても同じです。「もっと早くにその情報を知りたかった。」
「もっと早くにこの医院に出会えていればこんなに歯を失わなくてもよかったかもしれない。」
そんな言葉を何人の方から聞いた事でしょう。
「より多くの人にむし歯予防、歯槽膿漏予防についての正しい情報を広めていきたい。
そんな気持ちが生まれました。

その後、私自身が妊娠し、妊娠が分かってから半年後に夫のアメリカ留学への同伴を
ひかえている状況でした。
渡米までは準備に追われ、妊娠7か月で渡米。活のセットアップや手続きをしている間に、
あっという間に出産をむかえてしまいました。
その後は知らない土地での育児が始まり、夫や周りの日本人の友達に支えられながら
毎日がすぎ、子供が10か月の時に帰国となりました。

帰国後は、また日本での生活のセットアップ、一段落した所で私も仕事を探そうと思い、
現在のヨリタ歯科クリニックに非常勤で勤める事となりました。
その後、すぐに2人目の妊娠が分かり、産休、出産、復帰・・・
本当に慌ただしい日々でした。

そんな中、ヨリタ歯科クリニックに非常勤として勤め、そこでたくさんの子供達に出会い、
そして2人目が生まれ、身近に同じぐらいの子どもを持つお母さんの友達が出来、
私も感じる事が徐々にではありますが、新たな気持ちとして出てきました。
ヨリタ歯科クリニックに勤めて
ヨリタ歯科クリニックには、以前勤めていた歯科医院に比べ、非常にたくさんの子供達が来て下さっています。
子供達のかけがえのない笑顔、「歯医者に来る事が楽しい!」と言って来て下さる子供達に出会う事が出来、
私に出来る事は、ただ単にむし歯予防について
伝えるだけの事ではない
と感じました。

子供達がきれいな心を持って、健全に育つための、お手伝いをしたい。
そして、子供達が成長していく上で、歯医者を通じていい思い出に残るような出会いや、接し方、
心の成長にいい影響を与えるような場、そして子育てで苦労を感じているお母さん達の
支えになることができたら、これほどうれしい事はないと感じるようになりました。
ママ友達が出来て
2人目が生まれてから、上の子と同じぐらいの子どもを持つお母さんと友達になることが出来ました。
そのお母さん達から聞いた声。
「子供のむし歯予防をしようと思っていても、周りの環境によって出来ない事がある。」
「子供のむし歯予防について知らない、
あるいは関心がない人が周りに多くて、自分1人だけだと
浮いてしまうから出来ない。」
この生の声を聞いた時は衝撃でしたが、それが聞けた事により、
やはり「私が伝えたい事はむし歯予防だけではなかった。」と感じる事が出来ました。
現在の私
現在は、ヨリタ歯科クリニックに勤務するとともに、重度心身障害児施設の子どもたち
(年齢的には大人の方もいますが)の口腔ケアにも週1回行っています。
心臓外科医だった父は、今その施設の園長を務めています。
子どもの時は、厳格で近寄りたくもなかった父と、今こうして同じ方向を向き、共に働けること
とてもうれしいことです。
施設の子ども達から教わることもたくさんあります。
今はまだ始めたばかりですが、将来的にはこちらの方面からも広がっていけたらいいなぁと
思っています。

これらの経緯があって、今の私があります。
私も初めは歯のことなど何も分かりませんでした。
大学に入ってから、歯の大切さ、予防の大切さ、その方法を学び、
そこから広がっていっただけです。

よろしくお願い致します。
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